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  • KazumasaSugasawa

現代アートの肖像  

「現代アートとは何か?」と聞かれた場合に答える定説として、クールベ以降、マネ以降、そしてデュシャンが泉を発表した1917年以降のいずれかを答えることが一般的である。

しかし村上隆は以前に自身の著書か動画の中で「現代アートとは戦後アメリカの美術である」と答えていた。彼が述べた「現代アート=戦後アメリカ美術」とは何か?これに対して私見を述べたいと思う。


まず戦後アメリカ美術というものが明確な形でいつ頃作られたかというと、これはおそらく1940年代にジャクソン・ポロックによって作られたと考えられる。


ポロックはドリッピングと言われる手法を用いて作品を制作した。

それまでヨーロッパでは絵画はイーゼルに立てかけて描かれていた、しかしポロックはネイティブアメリカンなどの砂絵をヒントにキャンバスを床に平置きにすることでヨーロッパの絵画と差別化を図った。またヨーロッパ伝統の光と影による描写、一点透視図法、視点の固定を否定したこの絵画はオールオーバーと呼ばれヨーロッパの絵画に対するカウンターとして評価された。

余談だが村上隆は自身の花が敷き詰められた絵画をポロックのオールオーバーな画面からヒントを得て制作したと語っていた。


ポロックは絵画から視点取り除くことでヨーロッパの一点透視図法による絵画を否定した。これに対して村上隆は視点を無数に画面に配置することで視点の固定を否定した。作品の表面を見ているだけではわからないが、ポロックと村上隆の作品の構造は極めて近いと言えるだろう。どちらの作品もヨーロッパ絵画のような三次元的な奥行きがなく視点が拡散されるように設計されているのである。


ポロックがヨーロッパに対してカウンターを放った後の1950年代に今日の現代アートの原型を作ったジャスパー・ジョーンズが現れた。ポロックが自己表現として作品を制作していたのに対してジョーンズはそれを否定してデュシャンのように作品から個性やアウラ、オリジナリティを排除しようと試みた。

ジョーンズは国旗やターゲットなど既に存在する平面的なモチーフを用いて絵画を制作した。





ジョーンズはダダと呼ばれていたデュシャン等の後継としてネオダダと呼ばれた。何故そう呼ばれたのか?それはデュシャンがレディメイドと呼ばれた日用品の男性用便器を作品と主張したように、ジョーンズは日常にある国旗やターゲットをモチーフとして用いて絵画を制作したからである。デュシャンの便器同様にジョーンズの絵画には美しさがなく、表現主義的な態度は抑制されている。

ジョーンズの絵画は美しくない、そのため芸術=審美的であると考える鑑賞者は困惑して何故この作品が評価されているのか解らないのである。ジョーンズが自己の内面ではなく日常の既にあるものを参照して絵画の制作を行った、私はこの一連の行為を「イメージのレディメイド」と呼んでいる。

そしてこの「イメージのレディメイド」というキーワードーはその後登場してくるウォーホルやアプロプリエイションアート等の今日の現代アートに大きな影響を与えた。

この様な日常の既にあるものを引用して作品を制作するという方法は、前回書いた「アーティストの作法」というブログで紹介したような発展を遂げて、現在は過去の作家の作品のイメージの表層を利用して作品を制作することにより、引用者である作家のオリジナリティや固有性、アウラの脱色を試みている。

このように作品からオリジナリティやアウラを排除するという制作方法は、デュシャンの「泉」における制作概念を絵画上で拡張して「現代アート=戦後アメリカ美術」の原型を作ったと言える。

またもうひとつ「現代アート(戦後アメリカ美術)」の特徴を挙げるとすると、いかに努力せず効率良く作品を制作するかという生産性の高さに価値を求める点が挙げられるだろう。

このいかに努力をせず効率良く作るかという点で言った場合に分かりやすい作家としてTAUBA AUERBACHを例に挙げてみる。TAUBAのFoldシリーズは折り畳んだり皺をよせたキャンバスに真横からエアブラシで塗料を吹き付けた後引き伸ばしてフレームにマウントしただけの作品がある。



美しくなおかつ絵のうまさや努力を必要としないとてもクレバーな作品である。オプアートのような趣もあり洗練されている。

次はSTERLING RUBYの作品を挙げよう、フロッタージュ技法を用いて制作された以下の作品も簡単だが効果的である。



そしてアメリカ人ではないが、アメリカで活躍するイタリア人のRUDOLF STINGELを例に挙げたい。STINGELの作品も効率良く効果的に作られている。絵の具を塗ったキャンバスにガーゼを乗せて上からエアブラシで塗料を吹きかけた後にガーゼを剥がして出来上がる作品である。


もうひとつはメッキの様な加工が施されたスポンジに来場者が自由に落書きや傷をつけたりすることで出来上がる作品である。

鑑賞者参加型のアートはFELIX GONZALEZ-TORRESやRIRKRIT TIRAVANIJAの作品を踏襲した絵画作品と言えるだろう。


これらの効率性を重視する製作方法と前述した作品からデュシャンの様に個性やアウラを取り除く試みに通底しているのはアメリカの病んだニヒリズムである。

これは努力や絵のうまさ、個性、アウラを否定して別にそんなもの必要ないと、そんなことより効率よくうまくやったものが偉いのだと、そういった人間が称賛される合理主義的社会背景から来たものであり、これが「現代アートの肖像」と言えるだろう。

これらの手法は才能がなくても芸術家として己を肯定することの出来る装置であり、需要が拡大するアートマーケットに作品を供給する上でも最適な発明だった。

天才とはそう頻繁に現れるものでもなく、その発明は作家の天才性をシニカルに批判したデュシャンの「泉」を父として迎えて括弧付きの「現代アート(戦後アメリカ美術)」として誕生した。

しかしアーティストの天才性を否定して、努力を非効率的だと冷笑する様な態度を取る「現代アート(戦後アメリカ美術)」は本当の意味で生産的であると言えるのか私は疑問である。

この続きについては「現代美術に疲れたその果てに」というタイトルでブログを書こうと思う。

ここで語っているのはあくまでも絵画の話であるが、他のメディウムでも共通するところがあるのではないかと考える。それでは駄文乱文失礼致しました。言いたいことは以上です。


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